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松山市内にあるもう一つの城。道後温泉の側に道後公園があるが、それが湯築城である。
公園なので、全体的によく保存されてはいるが、「城跡」として整備されているとは言い難い。
公園を歩き回るだけなら無料である。
追記2003/12
2003/12に訪れた時、濠の外側に武家屋敷が二棟復元されていた。見る価値はあるだろう。
ただ、山頂は展望台があるだけで、「城跡」として整備されているとは相変わらず言い難い。
追記2005/03
2005/03、高知の城保存会一行と共に再訪。湯築城の保存の為に活動している先生などの説明もあって、これまで分からなかったことが多く分かった。
何より不思議に思ったのは、なぜ中世の城なのに平山城なのか、という点。城周辺は平野で、丘陵部も30メートルほどしかない為、攻め込まれ易いのでは、と思ったのだ。
が、先生の説明で、むしろ城を置く地として最適だったのが分かった。
現在、湯築城周辺には川が殆どないが、河野時代は何本もの川に囲まれ、容易に近付けない地形だった。外堀も当時は現在より幅が広く、南部にいたってはその直ぐ外が川になっていた(この川は昭和に入っても残っていたという)。
そんな訳で、ここはまさに「城をここに築いてくれ!」と言わんばかりの地だったのだ。
現在、湯築城への入り口は北東西の3ヶ所だが、元は東西の2ヶ所だけだったらしい(江戸時代の古図には東西南北の4ヶ所あるが、発掘調査では南北の入り口は確認できなかったとのこと)。現在は路面電車通りに面している西側が表口で、東が裏口扱いだが、当時は東側に大手門が配置されていたという。
湯築城は、現在は保存活動が進められているものの、紆余曲折があったようだ。最大の難点が、備考の部分で記したように「建材は伊予松山城に使われた為、今は何の遺構もない」という説が既成事実化していたこと。つまり、保存する意味がない、と思われてしまっていたのだ(常識的に考えれば、中世の城の建材が近世の城で使える訳がないのだが)。そんな理由から、城跡には動物園が置かれるなど、遺跡としてはかなり雑に扱われていた。
動物園の移転に伴い、発掘調査をしたところ、25万点にも及ぶ遺物を出土し、遺構がふんだんに残された貴重な遺跡であることが判明。
これにより保存・整備が進んだ。
ただ、先生によると地元の反応はイマイチで、近くの道後温泉の関係者からは「駐車場にした方がよかった」という声が今でも聞こえるという。
また、備考では「河野氏は秀吉によって滅ぼされてしまい……」となっているが、先生によると実際には河野家は別の地に転封されただけらしい。が、城を明け渡した河野家の当主はそれから2年後に死亡(暗殺とも言われる)。それ以後も河野家は残ったらしいが、歴史の表舞台から完全に消えてしまい、今となっては子孫がどうなったかは分からないという。
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