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1587年、天下統一を果たした豊臣秀吉は、生駒親正に讃岐の国を与えた。親正は、当初は引田城へ入城したが、東讃岐に寄り過ぎていたので、聖通寺城に移った。
聖通寺城は国のほぼ中間にあるという条件は満たしていたものの、山城だった為に不便だった。そこで、親正は新たに城を築くことにした。
城地として選ばれたのが玉藻浦と呼ばれた寒村である。縄張りを担当した藤堂高虎も、理想の城地と絶賛した。
築城工事は1588年に開始し、3年かかって完成した。
徳川と豊臣の対立では、秀吉の子飼い大名として大いに悩んだに違いない。関ヶ原の合戦では、子を徳川側につかせ、自分は豊臣側につき、どちらが負けても子孫は守れるという戦法を取った。
この奇策により、断絶は免れたものの、幕府の監視の目から完全に逃げ切れなかったらしく、親正の死後、生駒家は「生駒騒動」によって転封される。17万石から1万石へ減らされて。
高松城はその後親藩の居城となり、明治にまで至った。
櫓は約20も建てられたが、残っているのは3棟だけで、どれも重要文化財である。
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