津村巧の

城巡り

TAKUMI TSUMURA'S

CASTLES

 

津村巧の

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四国地方の城

 

四国は中国地方に近く、交通の便も悪くなく、現存天守が四つも集中しているとあって、四国地方の城は行った回数は比較的多いです。

 

 

徳島県

香川県

愛媛県

高知県

 

 

 

 

 

 

 


 

 

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徳 島 城

 

復興された門

 

別名

渭山城(イノヤマ)、渭津城(イノツ)

所在地

徳島県徳島市城の内

種類

平山城

築城者

細川頼之

築城年

1586年

遺構

本丸、石塁、濠の一部、復興門

初訪問

1996

遺構

 徳島城は、墨俣城で有名な蜂須賀小六の長男家政が阿波の国へ入封された際、新たに築いた城である。

 海抜63メートルの山頂に本丸を築き、西側に二の丸、三の丸を築き、東側の平坦部に三層天守を築いたという。

 幕末まで建物の多くが残っていたそうだが、明治初年に取り壊され、唯一残されていた鷲の門も大戦で焼失した。

 蜂須賀小六といえば幼名時代の秀吉の親分だった野武士である。その子が25万石の大名になり、しかも秀吉の恩を受けながらも関ヶ原を生き残ったのは時代を見る目があったとしかいいようがない。

 25万石の外様大名でありながら幕末まで続いたというのも不思議である。

感想

 城祉は駅の東にある。線路の南に沿って通る道路を進むと、陸橋があるので、それを渡れば徳島公園、すなわち徳島城である。

 城内に城の面影はまるでなく、城があったことが嘘のようである。模擬天守を建てろなどとは言わないが、何とかならないのかね、と思ってしまう。

 公園の入場は無料。

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香川県の城

丸亀城

讃岐高松城

 

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香川県丸亀城高松城など

 

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丸 亀 城

 

天守と石垣

 

別名

亀山城、蓬莱城

所在地

763 香川県丸亀市大手町2-3-1

種類

平山城

築城者

生駒親正

築城年

1597年

遺構

本丸、二の丸、三の丸、石塁、現存天守三層三階、門

初訪問

1995

備考

 丸亀城は、生駒親正が築いた。17万5000石の大名で、高松城(広島県や、岡山県のでなく、香川県にある高松城)を築いた後、1597年から支城として丸亀城を築き始めたのである。1602年に完成したが、1615年の一国一城令で廃城となった。

 1641年に移封された城を山崎家治が修築し、現在の姿になった。山崎氏が3代続いたが、3代目の治頼には子がなく、絶家。京極氏6万石が1658年入城し、7代続いた(松江城の京極氏は1代4年間しか続かなかったのと比べて長い)。

 明治時代になると、櫓や門が撤去されたが、天守だけは残った。1943年、天守は国宝に指定される。1950年の解体修理後、天守は重要文化財に指定された。大手門も後に重要文化財に指定されたが、長屋と表門は指定されていない。小冊子によると、江戸時代に建てられたものだから、充分に値すると思われるが……

感想

 丸亀城の最大の特徴は石垣である。山全体が石垣で固められている、と言ってもいい。こんな高いところによく運べたな、と来る度に感心する。

 本丸までは無料で登れる。天守に入るには100円(安い!)を支払わなければならない。

 城は丸亀駅から徒歩で10分くらいの位置にある。駅からでも望める。というか、全貌を捉えたいなら駅から望むのが一番かも知れない。

 市内には本場の讃岐うどんが食べられる店が多い(つづみなど)。

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天守

 

 

 

天守と大手門

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讃 岐 高 松 城

 

天守台

 

別名

玉藻城

所在地

香川県高松市玉藻町

種類

平城、水城、水際城

築城者

生駒親正

築城年

1588年

遺構

本丸、二の丸、濠、石塁、天守台、現存櫓

初訪問

1996

備考

 1587年、天下統一を果たした豊臣秀吉は、生駒親正に讃岐の国を与えた。親正は、当初は引田城へ入城したが、東讃岐に寄り過ぎていたので、聖通寺城に移った。

 聖通寺城は国のほぼ中間にあるという条件は満たしていたものの、山城だった為に不便だった。そこで、親正は新たに城を築くことにした。

 城地として選ばれたのが玉藻浦と呼ばれた寒村である。縄張りを担当した藤堂高虎も、理想の城地と絶賛した。

 築城工事は1588年に開始し、3年かかって完成した。

 徳川と豊臣の対立では、秀吉の子飼い大名として大いに悩んだに違いない。関ヶ原の合戦では、子を徳川側につかせ、自分は豊臣側につき、どちらが負けても子孫は守れるという戦法を取った。

 この奇策により、断絶は免れたものの、幕府の監視の目から完全に逃げ切れなかったらしく、親正の死後、生駒家は「生駒騒動」によって転封される。17万石から1万石へ減らされて。

 高松城はその後親藩の居城となり、明治にまで至った。

 櫓は約20も建てられたが、残っているのは3棟だけで、どれも重要文化財である。

別名

 高松城は高松駅から徒歩で2、3分の位置にある。この2、3分も信号機に阻まれるからであり、信号が上手い具合に青だったら1分もかからない。

 現在城は玉藻公園となっていて、二の丸と本丸は有料である。200円。

 奇妙なことに、現存している櫓は全て金を払わなくても存分に見ることができる。

 高松市を最初訪れた時、まさに田舎町の駅だな、と感じたが、最近(2003年)訪れた時、駅舎や駅前が近代的なものへと変わっていたのでびっくりした。特に駅前の高層ビル(ホテルらしい)には驚いた。なぜ建てられたのか。

 高松市の飲食店にはCafe and Food Station Tant(パフェ)がある。

辰巳櫓

月見櫓

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伊 予 松 山 城

 

小天守の間から覗く大天守

 

別名

勝山城、金亀城 (キンキ)

所在地

790 愛媛県松山市丸の内1

種類

平山城

築城者

加藤嘉明

築城年

1602年

遺構

本丸、二の丸、石塁、木造3層3階地下1階天守(重文)、現存櫓、現存門、復元櫓、復元門

初訪問

1994

備考

 松山城は1602年、加藤嘉明20万石が26年の歳月をかけて完成させた。彼は何が何でもこの地(勝山)に建てたかった為、勝山を2番目の候補にして幕府に申し出た。その結果、この地に建てる許可が出た。幕府が第1候補の土地は絶対認めないという原則を逆手に取ったのだ。しかし、嘉明は完成直後に会津若松へ移された。この際、40万石になったので出世であるが、彼にしては残念だっただろう。一説には完成した松山城(この時は5層天守)があまりにも立派だった為移されてしまったと言われている。

 加藤家の後、蒲生忠知20万石が入城した。彼には子がなく、断絶してしまった。

 蒲生家の後、1642年久松家が入った。5層天守が三層天守に改築されたのはこの時である。表向きは地盤が弱いからと言い訳したが、幕府に遠慮した為であるのは当然である。

 その後、松平家15万石が入城し、明治まで続いた。

 久松氏が築いた天守は1746年に落雷で焼け、大政奉還直前の1854年に再建された。これが今も残っている天守である。一時は国宝にもなったが、重要文化財に格下げされた。城は第二次大戦でも殆ど戦火を浴びずに残ったが、1949年の放火では多くの建造物が焼失した(放火した奴は打ち首にするべき)。大半は木造で忠実に再建されている。

感想

 松山城は、数多くの建築物が見られる。こりゃ姫路城並みだ! と喜びたくなるが、大半は復元されたものである。天守群でも現存なのは大天守だけで、小天守は全て復元されたもの。

 松山城へ登るには、山道を徒歩で登る方法(初訪問の時はこれだった)と、ロープウェイ(有料)を使う方法がある。ただ、ロープウェイは城の東にあり、そこまで行くのにかなり歩くことになるので、いっそ山道を登ってしまった方が楽かも。山自体は極端に高いものではない。

 本丸に入るのは無料だが、天守曲輪に入るには料金を支払わなければならない。自分が行った時は350円だった。

 大天守は、小天守と居並ぶ為、遠くから見ると堂々としているが、近付いて見ると意外と小振り。それでも価値ある遺構である。

 松山市では、JR松山駅より私鉄伊予鉄道の松山市駅の方が規模が大きい。

 松山市周辺には、他に松前城などがあり、松山市内には他に湯築城がある。

 松山市の飲食店にはピノモンテ(バイキング)と、デリー(カレー)と、MISHIMAパフェサンドウィッチ)がある。

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天守群

 

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宇 和 島 城

天守。本丸から

別名

鶴島城、丸串城、板島城

所在地

798 愛媛県宇和島市丸之内1

種類

平山城

築城者

藤堂高虎

築城年

1596年

遺構

本丸、二の丸、石塁、現存天守三層三階(重要文化財)

初訪問

1995

備考

 宇和島城は、藤堂高虎によって築城された。後に入城した10万石の大名伊達宗利は、5年かけて大改修した。その時に築かれた3層の天守は、独立式の層塔型という、天守建築の最終発展型である。しかし、1662年に建てられたものなので、新しくもない(古い形式――復古型という――の望楼型天守を持つ高知城や、松山城は1700年代から、1800年代に建てられている)。

 現在も本丸や二の丸など、堅固な石垣が残されているが、建築物は重要文化財の天守だけだ。

感想

 現存天守のない城跡が殆ど、という中、愛媛県には現存天守が二つもある。一つが伊予松山城。もう一つがこの宇和島城である。

 城は駅から500メートルほど離れたところにある。城の入り口は入り組んだところにあるので、初めて行った時は探すのに苦労した。

 城内には見事な石垣が残っているが、建築物は現存天守のみ。同じ愛媛でも伊予松山城とは大違いである。

 本丸まで無料で入れる。天守に入るには200円を支払う。最初訪れた時は天守も無料だった。

 ここの駅は数回使用しているが、いつも混んでいて、列が出来ていた。特急だったからか。

 英語版はこちら

登城中に見える天守

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大 洲 城

高欄櫓

別名

比志城、地蔵ヶ獄城、大津城、亀ヶ岡城

所在地

愛媛県大洲市三の丸

種類

平山城

築城者

宇都宮豊房

築城年

1617

遺構

本丸、石塁、現存櫓

初訪問

1997

備考

 大洲城周辺は、元は大津と呼ばれていた。大洲の地蔵ヶ獄に宇都宮豊房が1330年に城を築いたことで大洲城の歴史は始まる(だから別名大津城、地蔵ヶ獄城とも呼ばれる)。

 宇都宮氏は8代にわたって地蔵ヶ獄城を本拠に宇和の西園寺氏、道後の河野氏、土佐の一条、長宗我部氏、そして中国地方の毛利氏と戦うが、1580年、長宗我部元親によって滅ぼされた。

 宇都宮氏の後、大野直之が入城するが、この直後、豊臣秀吉に攻められる。肱川に守られた城はなかなか陥落せず、3万の大軍による攻勢に対して一ヶ月も持ちこたえた。結局落城してしまうが、城地は重視されるようになった。

 今の大洲城は、籐堂高虎が修築したものである。1617年に加藤家が入り、幕末まで続いた。

 幕末まで4層天守が残っていたが、明治になって取り壊されてしまった。

感想

 大洲駅から真っ直ぐ大通り(国道56号)まで行き、そこを右に曲がる。国道に沿って進むと肱川がある。肱川を渡り、右に曲がれば大洲城である。

 こう記すと楽に行けるようだが、距離がかなりあるので、それなりに大変。

 城内には櫓がいくつか残っているが、どれも入れない。

 城内を歩き回るだけなら無料である。

 この城は城内から見るより、肱川にかかった肱川橋から望むのが最適かも。

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湯 築 城

湯築城

別名

湯月城

所在地

愛媛県松山市道後湯之町

種類

 

築城者

河野通盛

築城年

 

遺構