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関ヶ原の戦いの後、黒田如水・長政親子は、筑前に52万石の大大名として入った。1600年のことである。名島城に入ったが、大大名の居城としては狭過ぎる。新たに城を築くことになった。翌年の6月に施工が開始され、7年後に完成した。この城が福岡城である。
城郭の総面積は20万平方メートルにも及び、外濠は4700メートルにも及んだ。櫓は47もあったという。加藤清正も感嘆の声を上げるほど立派な城だった。しかし、天守台を築きながらも、天守は築かなかった。如水の意向でそうなったという。
家康が最も恐れていた人物が如水だった(秀吉姫路城を縄張りした人物でもある)。家康の死後、徳川から天下を奪うとなればそれは如水だろうとまでいわれていた。政治力、軍事力、知力、人望など、天下人の条件が全て揃っていたからだ。秀吉が家康を恐れたように、家康は如水を恐れた。隙を見せたら潰そうと幕府は企んだ。
しかし、如水は隙を見せなかった。幕府の目が彼に向いた途端、家督を子の長政に譲って隠居してしまった。立派な城を建てながらも、天守は建てなかった。
危険を前もって察して避ける。それでも危機に陥ったら自分のひ弱さをためらいなく披露する。この手法は加賀の前田家も用いた。熊本の加藤家や、広島の福島家などの大大名が潰される中、黒田家は、お家騒動で数回にわたって揺られながらも、転封されることなく明治まで続いた。
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