津村巧の

城巡り

TAKUMI TSUMURA'S

CASTLES

 

津村巧の

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九州・沖縄地方の城

 

九州地方の城は見所があるのが多いので、もっと行きたいのですが、チャンスに恵まれません。
沖縄の城にも行ってみたいですが、これもまたチャンスに恵まれません。

 

福岡県

佐賀県

長崎県

熊本県

大分県

宮崎県

鹿児島県

沖縄県

 

 

 

 

 

 

 


 

 

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福 岡 城

 

天守台。天守が築かれたことはない

 

別名

舞鶴城

所在地

福岡県福岡市中央区

種類

平山城

築城者

黒田長政

築城年

1601年

遺構

本丸、二の丸、石塁、天守台、濠、現存櫓

初訪問

1996

備考

 関ヶ原の戦いの後、黒田如水・長政親子は、筑前に52万石の大大名として入った。1600年のことである。名島城に入ったが、大大名の居城としては狭過ぎる。新たに城を築くことになった。翌年の6月に施工が開始され、7年後に完成した。この城が福岡城である。

 城郭の総面積は20万平方メートルにも及び、外濠は4700メートルにも及んだ。櫓は47もあったという。加藤清正も感嘆の声を上げるほど立派な城だった。しかし、天守台を築きながらも、天守は築かなかった。如水の意向でそうなったという。

 家康が最も恐れていた人物が如水だった(秀吉姫路城を縄張りした人物でもある)。家康の死後、徳川から天下を奪うとなればそれは如水だろうとまでいわれていた。政治力、軍事力、知力、人望など、天下人の条件が全て揃っていたからだ。秀吉が家康を恐れたように、家康は如水を恐れた。隙を見せたら潰そうと幕府は企んだ。

 しかし、如水は隙を見せなかった。幕府の目が彼に向いた途端、家督を子の長政に譲って隠居してしまった。立派な城を建てながらも、天守は建てなかった。

 危険を前もって察して避ける。それでも危機に陥ったら自分のひ弱さをためらいなく披露する。この手法は加賀の前田家も用いた。熊本の加藤家や、広島の福島家などの大大名が潰される中、黒田家は、お家騒動で数回にわたって揺られながらも、転封されることなく明治まで続いた。

感想

 城があった場所には球場が建てられたり、運動場になっていたりと、城として整備されているとは言い難い。石垣が残っているのは本丸のみである。完成当時は櫓が数十あったというが、その痕跡は現在の城跡からは見受けられない。

 公園なので、入場は無料。

 現存建築は公園の外にある。大手門と潮見櫓である。潮見櫓は別の場所にあったものを移築したらしい。

 福岡市内には、他に名島城がある。

 福岡市の飲食店にはマロニエ(バイキング)と、印度カレーと、カレーシェフがある。

 

潮見櫓

 

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久 留 米 城

 

本丸石垣

 

別名

久留目城、来目城、篠原城、篠山城

所在地

福岡県久留米市篠山町

種類

平山城

築城者

毛利秀包

築城年

 

遺構

本丸、石塁、濠

初訪問

1996

備考

 現在の久留米城は、毛利秀包が築いた。

 秀包は熱心なクリスチャンで、大友宗麟の娘を娶った。城下に教会を建て、最盛期には数千のキリスト教信者が集まった。

 しかし、秀包の支配は長く続かなかった。関ヶ原で西軍に属してしまったのだ。それ以後、黒田如水の弟図書や、加藤清正の家臣が入城した後、有馬豊氏の居城となった。

 現在は本丸しか残っていないが、かっては現在の篠山町全域に二の丸と三の丸を拡げていた大規模な城だった。

感想

 久留米市といえば大手タイヤメーカー・ブリジストンの工場があることで有名。自分が行った時、大きな町でない割には活気に溢れているな、と感じた。

 ただ、久留米市は久留米城を観光資源として利用するつもりはないらしく、道しるべなどは全くない。城があることを知らない市民も多いのではないか。

 本丸の石垣は立派で、高さ20メートルはある。本丸の敷地は現在篠山神社となっており、入場は無料である。

 

本丸石垣

 

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小 倉 城

 

復興天守

 

別名

勝山城、勝野城、指月城、湧金城、鯉の城

所在地

803 福岡県北九州市小倉区城内2-1

種類

平城

築城者

細川忠興

築城年

1602

遺構

本丸、石塁、復興天守鉄筋コンクリート4層5階

初訪問

1996

備考

 小倉城は、細川忠興が築いた城である。関ヶ原の功で40万石の大名になった忠興は、中津城に入ったが、狭過ぎると感じ、小倉に城を築き、居城とした。

 1620年、忠興は隠居し、家督を子の忠利に譲った。

 3代将軍家光による配置替えで、細川家は熊本へ移転した。小笠原氏15万石が小倉に入り、明治まで続いた。

 天守は失火により1837年に焼失し、再建されなかった。

 天守焼失後にも城内に建造物は残っていたが、1866年の豊長戦争で小笠原氏は自ら城に火を放った為、全焼してしまった。

感想

 最寄のJR駅は西小倉。西小倉駅から300メートルほど南下すればよい。

 小倉城天守の特徴は、本来なら五層になる天守の四層と五層の間の屋根を省き、四層天守として完成させたことである。また、五階部分が四階部分から張り出している。唐造りという。岩国城もこれと同じような造りである。

 現在の天守には破風があるが、1837年に焼失した天守には破風がなかった。島原城のような、天守建築の最終発展型だったのである。島原城では、一層目の海鼠塗りが単調なデザインのアクセントとなっているが、小倉城では、唐造りがアクセントだった訳である。再建天守では破風の為、唐造りのインパクトが減少しているのが残念だ。

 城は本丸まで無料で上がれる。復興天守に入るには入場料が必要。自分が行った時は350円だった。

 北九州市の飲食店には飛騨の高山パフェラーメン)がある。

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佐 賀 城

鯱の門

別名

栄城、亀甲城、沈み城

所在地

佐賀県佐賀市城内

種類

平城

築城者

鍋島直茂

築城年

1601年

遺構

本丸の一部、石塁、天守台、門

初訪問

1996

備考

 佐賀城は、戦国時代からあったが、現在の城は1601年に鍋島直茂が築城したものである。直茂は、旧佐賀城主竜造寺隆信の重臣であったが、隆信の死後、国を治められる人物は他にいないということで、大名になった。

 直茂は、竜造寺時代、旧佐賀城を攻める5万の大友軍を、わずか数百の兵で守り抜くほど戦に長けていた。隆信の死後、権力を巡る争いでは無闇に動かず、自然に権力が自分の手に入るのを待つという高度な政治的判断もできた人物だった。

 直茂のお陰で、鍋島家は秀吉の死や、関ヶ原などの苦難を乗り越え、転封されたり、取り潰されたりすることなく明治まで続いた。

感想

 佐賀駅から佐賀城まで行くには、南へ走る道を真っ直ぐ下ればよい。そうすれば外堀にたどり着く。城内に入って県庁を横切り、更に南下すると佐賀城跡に到着する。

 こうして書くと行くのは簡単そうだが、駅から県庁までの距離は1500メートルである。佐賀城跡は、県庁から更に500メートルほど離れている。

 佐賀城は主要駅から2キロも離れているのである。バスが通っているが、初めての者だと利用し難い。

 地図を見ると三の丸を囲む濠がくっきりと残っていて、期待が膨らむが、いざ三の丸に入ると県庁や図書館があるだけ。城内に踏み込んだ、という実感は味わえない。

 また、本丸の敷地は学校用地となっている。

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唐 津 城

模造天守

別名

舞鶴城

所在地

840 佐賀県唐津市東城内8-1

種類

平山城

築城者

寺沢広高

築城年

1602年(1608年完成)

遺構

本丸、石塁、復興天守56階、復元櫓

初訪問

1996

備考

 唐津城は、寺沢広高が1602年に築いた城である。

 広高は、秀吉に可愛がられた大名の一人だったが、関ヶ原では東軍につき、唐津に留まることができた。しかし、キリシタン対策を誤り、島原の乱の責任を取らされてしまう。その上、子は発狂・自殺し、唐津の寺沢氏は2代で終わることになった。

 その後、大久保氏3代、松平氏3代、土井氏4代、水野氏4代、小笠原氏6代など、親藩の領地として明治を迎えた。

 唐津城の別名は舞鶴城であるが、同じ別名を持つ城は全国に数多くある。最も近いのが福岡城である。

感想

 唐津城本丸は、唐津駅から1キロ以上離れている。ただ、城の規模は大きかったらしく、市街地のど真ん中に復元された櫓があった。

 唐津城本丸は公園となっており、無料で入れる。復興天守は有料。

 本丸周辺も当然ながら城地だった筈だが、学校などが建ち、面影はない。

 唐津城本丸付近には高層ビルが少ない為、かなり遠くからでも望むことが出来る。

市内に復元された櫓。ずっと奥に天守がある

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島 原 城

復元天守と隅櫓

別名

森岳城、高光城

所在地

855 長崎県島原市城内1

種類

平城

築城者

松倉重政

築城年

1625年

遺構

本丸、石塁、復元鉄筋コンクリート5層6階、復元櫓

初訪問

1996

備考

 島原城は、松倉重政が、7年かけて築いた城である。日之江城を居城としていたが、どうも狭い。

 そんな時、一国一城令が執行されると耳にした。施行後は新城を築くのが不可能になると感じた重政は、直ちに島原城築城を開始した。

 重政は4万石という小大名にも拘わらず、層塔型五層天守に、三層・二層櫓を50近く並べ、名古屋城に匹敵するほどの本丸を持つ豪華な城を完成させた。この為、領民は重税に苦しんだが、重政は気に留めなかった。結局、重政は暗殺されてしまう。

 子の勝定は、父の悪いところを全て受け継いだような暴君で、領民は重税に苦しまれ続けた。その上、キリシタン弾圧も積極的に行った。島原の乱が勃発したのも不思議ではない。

 島原の乱の責任を問われ、勝定は切腹を命じられた。

 その後、高力氏、松平氏、戸田氏、再び松平氏と、城主は目まぐるしく代わった。原城で死んだ反乱軍の呪いの為か、城主は早死が多く、跡継ぎがなくて断絶、もしくは養子が多かったという。

感想

 島原城は、島原鉄道島原駅から出た時点で望める。

 島原に到着すれば問題なく行ける城。ただ、島原鉄道は使い勝手が悪い。停車駅が多い上に各駅停車だったので、とにかく時間がかかった。

 復元天守は、元の天守をほぼ忠実に復元している。破風などがないクリーンな、悪く言えば素っ気ない外形だ。他に櫓なども再建されている。

 本丸まで無料で入れる。天守は有料。300円だった。

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熊 本 城

 

天守群

 

別名

銀杏城

所在地

860 熊本県熊本市本丸1-1

種類

平山城

築城者

加藤清正

築城年

1601年

遺構

本丸、石塁、濠、宇土櫓(重文)他櫓多数、城壁、鉄筋コンクリート5層6階

初訪問

1996

備考

 熊本城は、名将加藤清正が築いた。

 古城と呼ばれることになる隈本城は、52万石の大大名の居城としては狭過ぎた。そこで、千葉古城跡の側にある茶臼山(標高50メートル)に新たに城を築くことになった。1601年に築城が始まり、6年後に大部分が完成した。その後も普請は続き、二の丸、三の丸と城郭は拡がり、70万平方メートルにもなった。肥後の国に、江戸と名古屋に次ぐ大城郭が完成したのである。

 1607年、清正は城へ移り、隈本を熊本と改めた。

 清正は、天守の前に、銀杏の木を植えさせた。この木が天守までの高さに達した時、混乱が起こると予言した。この木が別名の由来である。

 立派に仕上がった熊本城だが、幕府から見ると立派過ぎた。清正の子忠広の代で、理由にもならない理由で加藤家は改易されてしまう。

 その後、小倉から細川氏が入り、明治まで続いた。

 城の大部分は維新後も残っていたが、西南戦争で西郷隆盛が率いる軍の攻撃を受ける。その際、天守を含む城の大部分が炎上した。

感想

 熊本城はJR熊本駅から離れているが、利用し易い路面電車があるので問題ない。

 熊本城の最大の