津村巧の

城巡り

TAKUMI TSUMURA'S

CASTLES

 

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近畿地方の城

 

近畿地方は広島から比較的近いので、近畿地方の城にはよく行きます。移動費が高く付きますが。

 

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滋賀県の城

彦根城

安土城

長浜城

 

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滋賀県彦根城安土城など

 

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彦 根 城

 

現存天守

別名

所在地

503 滋賀県彦根市金亀町1-1

種類

平山城

築城者

井伊直継・直孝

築城年

1603年

遺構

本丸、二の丸、石塁、外堀、内堀、現存天守三層三階(国宝)、櫓多数、外観復元御殿(博物館)

初訪問

1996

備考

 彦根城主は築城された時から井伊氏だった。35万石は、外様大名としては中程度だが、親藩としてはリッチである。桜田門の変で暗殺された井伊直弼は彦根城主だった。

 彦根城天守も、明治維新後、他の多くの城と同様に取り壊される予定だったが、明治天皇が丁度その時付近を通った。同行していた大隈重信は天皇に保存するよう頼んだ。天皇は同意し、彦根城は取り壊しを免れた。これは喜ばしいことだが、なぜ他の城もこのようにしなかったと責めたい。

感想

 初めて行った時、彦根城天守は修復中だった為見られなかった。

 彦根城では天守だけでなく、櫓や門が多く残っており、見所が多い。

 入場料金を支払わないと本丸どころか城内に入れない。自分が行った時は500円だった。御殿風の博物館への入場は、別料金。

 側に、関ヶ原の戦いで西軍を実質的に指揮した石田三成の居城だった佐和山城跡がある。三成の処刑後、家康の命で井伊直政が入ったが、山城で不便だったので、新たに城を築いた。それが彦根城である。佐和山城の資材は彦根城に転用された為、遺構はないらしい。

 英語版はこちら

 

追記:

 2005/05に再訪。

 入城料は500円のままだった。

 彦根城の北側には城の庭園玄宮園がある。そこではお茶が飲める。

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安 土 城

 

天守台入り口

 

別名

 

所在地

滋賀県蒲生郡安土町豊浦

種類

平山城

築城者

織田信長

築城年

1576年

遺構

本丸、二の丸、石塁、天守台

初訪問

1996

備考

 安土城は、織田信長が天下統一を更に進める為、琵琶湖に突き出た安土山に築いた(築城当時、安土山は三方が湖に囲まれていたが、現在は三方とも埋め立てられている)。宣教師がヨーロッパの城より立派だと感嘆したほど豪華な城だった。が、完成から僅か三年後、本能寺の変のゴタゴタで焼失してしまった。

 信長の祟りを恐れてか、徳川幕府さえ手を付けず、城跡は荒れるままになった。本格的な調査が始まるのは昭和に入ってからである。

感想

 安土城があった時代は京の都より栄えたという町も、現在は田畑の多い田舎町に過ぎない。

 安土城は安土駅からかなり離れたところにあるが、駅前にはレンタサイクル店があるので、それを利用すればスイスイ行ける。

 城内は無料である。

 安土山はそれ以前の山城と比較して低かったから「平山城」に分類されているが、後に築かれた平山城と比較すると山城に近い。

 安土町には信長や安土城に関する資料館がいくつもある。

 安土山の側にある一段と高い山が観音寺山で、ここに観音寺城があった。

 安土駅の隣は近江八幡駅。この側の八幡山にあるのが近江八幡城である。

 英語版はこちら

 

追記:

 2005/05に再訪。9年振りに天守台まで上った。整備はかなり進んでいて、あっと言える間に天守台に到達していた。

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長 浜 城

 

模造天守

 

別名

所在地

526 滋賀県長浜市公園町10-10

種類

平城(水城)

築城者

羽柴秀吉

築城年

1575年

遺構

本丸、模造天守三層五階コンクリート

初訪問

1997

備考

 長浜はかっては今浜と呼ばれていて、京極高氏がこの地に城を築いたという。

 織田信長の下で懸命に使えた羽柴秀吉は1573年、この地を与えられた。秀吉はこの時点で一国一城の主となったのだ。木下姓を羽柴に改めたのはこの時である。

 秀吉は長浜城を拠点に各地に出陣するが、本能寺の変の後、秀吉は別の地に移され、代わりに柴田勝豊が入城した。

 柴田勝家との跡継ぎ争いでは、秀吉は自ら築城した長浜城を攻め、勝豊を降伏させた。

 長浜城はそれから城主が次々変わったが、1615年に彦根城が新たに築城されるに当たって廃城となり、資材の大部分は彦根へと移された。

感想

 長浜駅から陸橋を渡って行く。駅から天守が望めるので、初めてでも難なく行ける。

 城内の天守は模造で、歴史的根拠はない。真っ白な三層天守は、黒い天守を好んだ秀吉のイメージにはそぐわない。城内は公園となっていて、無料で入れるが、資料館となっている天守は有料。

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京都府の城

二条城

伏見城

淀城

勝竜寺城

 

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京都府二条城など

 

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二 条 城

 

国宝二の丸御殿

別名

二条新御所、二条新屋敷

所在地

604 京都府京都市仲京区二条通堀川西入ル二条城町541

種類

平城

築城者

徳川家康

築城年

1603年、1626年改築

遺構

本丸、二の丸、石塁、濠、天守台、二の丸御殿(国宝)、櫓二、大手門、唐門

初訪問

1984

備考

 二条城の始まりは織田信長が室町将軍足利義昭の為に築いたものだといわれている。これが現在の平安女学院の敷地に築かれた旧二条城である。義昭を追放すると、信長はその城を廃して、別の地に新たな二条城を築いたと伝えられているが、それがどこにあったのかは定かではない。

 現在、二の丸御殿がある徳川幕府の二条城は三番目の二条城ということになる。

 ……と思っていたら、家康の前に秀吉も二条城を築城したらしい。つまり、二条城は四つあることになる。

 また、信長が築いた二条城の正式名称は明らかでなく、『信長二条城』は現在の研究家らが勝手に付けた名である。

 ……こんな訳で、何が何だか分からない。

感想

 二条城は自分が初めて訪れた城である。ただ、その時は「城=天守」と考えてばかりいたので、天守のない二条城にはちょっとガッカリした覚えがある。今思えば馬鹿だった。

 二条城は二の丸御殿が残っている。大戦まで残っていた名古屋城本丸御殿が消失した以上、この御殿は幕府の御殿建築としては唯一のものである。

 幕府の城とあって、普請で建てられた。その為か、二層隅櫓も他の城の三層天守とほぼ同じ規模である。

 城内には、料金を支払わなければ二の丸にも入れない。自分が行った時、入場料は500円だった。

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追記:

 2005/05に再訪。入城料は600円になっていた。

 保存の為か、二の丸御殿の中の絵画の多くが模写品と交換されていた。

 京都市には抹茶のパフェを提供する都路里がある。

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伏 見 城

別名

指月城、木幡城、桃山城

所在地

京都府京都市伏見区桃山町

種類

平山城

築城者

豊臣秀吉

築城年

1592

遺構

鉄筋コンクリート5層5階模造天守

初訪問

1984

備考

 伏見城は豊臣秀吉によって二度建てられた。最初の城は月見のカラクリと呼ばれるようになる。明からの大使を迎える為に急ピッチで進められたらしい(1年弱で完成した)。大使を迎える前に地震で破壊され、結局大坂城で向かえることになったらしいが(天守の上部が転げ落ち、多数の死亡者が出た。秀吉も間一髪で逃れた)。この後、場所を移して再建されることになった。この時は急ぐ必要はなかったので、2年かけて建てられた。

 秀吉の死後、城は徳川家康の手に渡った。これを隠居城として使う計画もあったらしいが、家康は駿府城を隠居城として使ったので、無用になる。結局、豊臣家のが建てた城を残す訳にはいかない、という理由で取り壊されてしまった。石垣まで完全に壊された。現在、城らしいものは石塁の残骸だけである

感想

 自分が初めて見た天守。天守のない二条城を訪問した後に見た。今思えば模造天守なので(場所も違う)、価値は殆どないが、当時は感動した。

 今となってはわざわざ行くまでもない。

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淀 城

 

僅かに残された石垣

 

別名

 

所在地

京都府京都市伏見区淀本町

種類

平城

築城者

豊臣秀吉

築城年

1589

遺構

石塁の一部

初訪問

1996

備考

 淀城は秀吉によって建てられた。鶴松を生んだ淀殿の為である。しかし、鶴松が間もなく死ぬと、淀城を廃し、伏見に城を移した。1594年、完成からたった5年である。

 1622年、秀忠は松平定綱に命じて新淀城を築かせた。城は5層天守に小天守が4基あった。

 当初、伏見城の天守が移される予定だったので、それに合わせて天守台が築かれたが、伏見城天守は二条城に移された。代わりに二条城の天守が淀城に移築されたのである。天守台は、元二条城天守には広過ぎたので、四隅に小天守を設けた。この天守は1756年、落雷によって焼失している。

感想

 淀城跡は、淀駅の目と鼻の先にある。というか、駅が淀城跡内にあるらしい。

 淀城は完成当時はかなりの規模で、複雑な濠が設けられていたが、現在は殆どが埋め立てられ、市街地と化している。城内にいると城内にいるとは気付き難い。城の外に出て、石垣を見て、「ああ、さっきいたところが城だったのか」と納得するのである。

 入場が無料なのがせめての救い。

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勝 竜 寺 城

 

模造建築

 

別名

 

所在地

617 京都府長岡京市勝竜寺13-1

種類

 

築城者

松永氏

築城年

 

遺構

本丸、濠、模造建築

初訪問

1997

備考

 勝竜寺城は松永氏などが居城としていたが、1568年に織田信長に攻められ、落城した。1582年の本能寺の変後、明智光秀が入ったが、光秀が山崎合戦で秀吉に破れると秀吉の城となる。秀吉は淀城築城に勝竜寺城の石材を利用した為、廃城となった。

感想

 現在は公園となっている。長岡京市は1300年前に都が置かれていた場所。長い間整備されていなかったが、遷都1300年に当たる年に大規模に整備された。

 現在は濠や模造の城壁や櫓がある。

 入場は無料。

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大阪府の城

大坂城

岸和田城

 

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大阪府大坂城など

 

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大 坂 城

 

復興天守

別名

錦城、金城

所在地

540 大阪府大阪市中央区大坂城1-1

種類

平城

築城者

豊臣秀吉

築城年

1583年

遺構

本丸、二の丸、石塁、外堀、内堀、櫓多数、門多数、御金蔵、模造天守五層八階

初訪問

1996

備考

 大坂城は、豊臣秀吉が築いた。外郭を含むと後楽園球場の500倍の広さだった。天守の屋根は金銀銅の瓦で葺いた為、遠くからも輝いて見えたという。しかし、この名城も夏の陣で炎上した。

 大坂の城下も、秀吉が築いたものである。城の建築物は焼失したが、石垣などは残っている。豊臣家は人々に忘れられることはない。

 それは幕府にとってまずかった。その為、同じ場所に新しく築くことを決めた。豊臣大坂城は地下深く埋められてしまう。

 徳川天守は、名古屋城天守も越える巨大なもので、高さでは江戸城天守に次ぐものだった。しかし、幕府の天守は運が悪かった。江戸時代が始まってから半世紀も経たない内にどれも焼失してしまう。徳川大坂城天守も例外ではなかった。

 天守は焼失してしまったが、幕末も多くの建物が残っていた。しかし、それらも1868年の戊辰戦争で焼けてしまった。

 城内に13の重要文化財の建築物が残っているが、これだけでも奇跡と思わなくてはならない。

 現在の天守は日本初の復興天守だが、当初からエレベータがあった。それまでは軍艦などでしか見られなかった為、当時の人にとっては珍しかっただろう。

 1997年に天守の化粧直しが終了し、再公開された。

 尚、「大坂」が現在の「大阪」と表記されるようになったのは明治から。したがって豊臣時代の城は「大坂城」と表記するのが正しいと思われる。

感想

 最も近いJR駅は大阪公園駅。ここを出ると石垣や天守が直ぐ望める。

 この城は、何度訪れても石垣の規模と石垣で使われている石材の大きさに驚かされる。

 公園となっているので、本丸にも無料で入れる。ただ、天守と西の丸庭園は有料。天守の入場料は600円。あまりの高さに、石垣同様に驚く。西の丸庭園の入場料は200円。

 大坂城は大阪のシンボルとされているが、近年は周辺に高層ビルが続々と建つようになり、城を壁のように囲んでしまっている。ちょっと離れると天守が見えなくなるのは残念。

 大阪市の飲食店としては、KANAE(カレー)と、セイロン(カレー)と、YOSHIMOTO(パフェ)がある。

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岸 和 田 城

 

模造天守

 

別名

千亀利城

所在地

大阪府岸和田市岸城町

種類

平城

築城者

松浦肥前守

築城年

1560年頃

遺構

石垣、水濠、模擬天守

初訪問

1998

備考

 現在の岸和田城がある場所には戦国時代頃から城が築かれていたが、紀伊徳川家の押さえの城として重視され、城は大幅に増築された。完成した近世岸和田城は5層天守を持つ本丸、二の丸、三の丸の総曲輪を持ち、東西370メートル、南北650メートルもあった。

 5層天守は1827年の落雷で焼失し、それ以後は昭和に至るまで再建されなかった。古図では、天守は関ヶ原前に建てられたので下見板張りになっていて、現在の総漆喰塗りを模した鉄筋コンクリート天守とは似ても似つかぬものであった。「名城・古城事典」では5層の下見板張りの天守に建て直そうという計画もあると書いてあるが、頓挫してしまったようである。

感想

 最寄の岸和田駅で下りたのはいいものの、道路標識などが全くなく、探すのに苦労した覚えがある。

 城内には無料で入れる。模造天守は有料。400円だった。

 岸和田というと、城よりだんじり祭りの方が有名らしい。

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姫 路 城

 

全貌

 

別名

白鷺城(シラサギ)

所在地

670 兵庫県姫路市本町68

種類

平山城

築城者

池田輝政

築城年

1601年

遺構

備前丸、西の丸、三の丸、石塁、内堀、木造5層6階地下1階天守(国宝)、小天守、重要文化財櫓多数

初訪問

1994

備考

 現在の姫路に城を築いたのは昔から多くいたが(1333年に赤松氏が姫山に城を築いたのが最初と伝えられている)、現在の城は池田輝政が1601年に徳川家康に命じられて築いたものである。その前には1580年に豊臣秀吉が築いた三層天守の城があった。

 豊臣時代の姫路城の規模や外観はあまり知られていない。これは豊臣大坂城にも言える。

 豊臣時代の姫路城は名将黒田如水が縄張りしたとされている。現在の姫路城も如水の縄張りをそのまま使っている部分が多いらしい(特に本丸辺り)。

 輝政は52万石の居城としてふさわしく(後には87万石、その他の領地を合わせて100万石近くになった)姫路城を改築したが、1617年に池田氏は鳥取や岡山に移され、姫路城主は本多、松平、榊原、酒井など、15万石程度の大名の城となっている。なんだか勿体ない。

 姫路城は難攻不落の城として設計された(易功有落の城なんかないと思うが)。しかし、戦に使われることなく明治を迎えた。その後、三の丸に兵舎などが建てられた為、東端にあった出丸は潰され、三の丸の建物全てが取り壊された。現在、三の丸に広大な広場があるのはこの為だ。姫路城は一般的に多くの建造物が残っていると言われているが、それは現在の視点からで、幕末と比べると何分の一にしか過ぎない(幕末の姫路城を描いた看板が菱の門を潜った後にある)。

感想

 特に説明する必要もないほど有名な城。日本は勿論、世界を代表する城郭建築の一つ。世界文化遺産にも登録されている。天守群がメインアトラクションだが、他にも西の丸の渡櫓など、見所が多い。

 姫路城は姫路駅から500メートルほど離れているが、行くのに困難しない。駅を出た時点で天守が望めるからだ。また、城の周辺には高層ビルが建っていないことから、かなり遠くからでも城を展望できる。

 三の丸までは無料で入れる。それ以降は入場料を支払わなければならない。最初行った時は500円だったが、今は600円に値上げされている。

 また、姫路市内には他に御着城や英賀城がある。

 姫路市の飲食店には、ポムの樹(イーグレひめじ店)(パフェ)と、COO's CONSERVO(バイキング)と、パスチオーナ(バイキング)と、印度倶楽部(カレー)がある。

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天守群

本丸から望む天守群

 

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明 石 城

隅櫓と白壁

別名

喜春城、錦江城

所在地

兵庫県明石市明石公園

種類

丘城

築城者

小笠原忠真

築城年

1617年

遺構

本丸、石塁、現存櫓(五層天守が予定されていた)

初訪問

1996

備考

 明石城は、信濃の松本から入部した小笠原忠真によって1617年に築かれた。幕府の命令で新城を築いたのである。この為、築城費用の一部は幕府が負担した。

 5層天守が計画されたが、結局建てられなかった。

 明石城の縄張りは、西から本丸、二の丸、三の丸(東の丸)と、曲輪が串団子状に連なるものだった。

 この城は縁起がよいとされている。歴代城主は加増されて明石藩主になるか、加増されて移転されることが多かったからである。初代藩主の小笠原氏は10万石だったが、移転の際、5万石加増された。城主はそれから松平氏、大久保氏、越前大野松平氏と変わったが、いずれも1万石から2万石加増されて入城している。

 現在は公園となっていて、三層櫓二基の他に濠や、天守台が残っている。

感想

 初めて行った時は阪神淡路大震災直後で、櫓が修復中で、見られなかった。現在は修復が完了している。

 明石駅に近く、新幹線のホームから城が一望できる。

 入場は無料。ただ、櫓には入れないようである。

 明石市には、他に船上城がある。

 明石の名物は玉子焼(明石焼ともいう)。たこ磯などで食べられる。

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赤 穂 城

 

大手門と隅櫓

 

別名

加里屋城

所在地

兵庫県赤穂市上坂屋

種類

平城

築城者

松平政綱

築城年

 

遺構

本丸、石塁、濠、復元天守台、復元櫓、復元門

初訪問

1996

備考

 赤穂が近代城下として整備されたのは、池田輝政の五男松平政綱が、3万5000石で入封してからである。政綱は御殿を築き、後に弟の輝興が櫓などを築いた。

 しかし、輝興は妻や侍女を殺害したということで失脚し、代わりに浅野長道が5万5000石で入城する。城下は一層整備された。

 浅野家入封から57年後、忠臣蔵のきっかけとなる事件で浅野家は断絶となる。その後、永井氏、森氏が入城し、明治まで続いた。

 11代続いた森氏は2万石の小大名で、城の整備に回す資金はなかったらしい。明治以前に荒れ果てていたという。

 つい最近まで本丸には県立赤穂高校があったが、史跡に指定されてから移転され、整備が進んでいる。二の丸、三の丸も徐々に整備される予定だそうである。

感想

 自分が持っていた本では、赤穂城は現在高校の敷地となっている、と記されていたので、本丸が整備されている(天守台や本丸御殿跡)のを見てびっくりした。よいことである。

 ただ、自分が行った時点で整備されていたのは本丸だけ。大手門を潜って城内に入っても、暫くは普通の市街地となっていた。

 本丸への入場は無料。

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龍 野 城

 

復元隅櫓

 

別名

 

所在地

兵庫県龍野市龍野町

種類

平山城

築城者

石川光元

築城年

1600

遺構

本丸

初訪問

2002年

備考

 龍野城は本来は鶏龍山にあったが、江戸時代に石川氏によって山麓に移された。

 山麓の龍野城は1871年の廃藩置県まで使われた。

 本丸御殿や隅櫓が復元されている。

感想

 龍野城に最も近いJR駅は「龍野」ではなく「本竜野」。「龍野」は別の路線上にある。

 城は龍野駅から川を渡ったところにあり、近いとは言えない。

 残っているのは本丸だけ。側に歴史博物館がある。

 現在の龍野城は、小高い山の麓にある。山は以前の龍野城があった場所。龍野城は二つあったことになる。

 本丸は無料で入れる。

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三 木 城

 

公園となっている城址。石碑が建てられている

 

別名

釜山城、別所城

所在地

兵庫県三木市上の丸町

種類

丘城

築城者

別所則治

築城年

15世紀後半

遺構

土塁、堀、天守台

初訪問

2004年

備考

 三木城は15世紀後半に別所則治によって築かれた。以後、別所氏が代々城主となる。

 1538-1539年には尼子氏、1544年には三好氏や有馬氏に攻められたが、落城せず、難攻不落の城として知られるようになる。

 織田信長の中国攻めの大将羽柴秀吉を敵に回した三木城5代城主別所長治は、三木城に立てこもり、1578年から1年8ヶ月にわたって抵抗を続けた。が、兵糧攻め(「播州三木の干殺し」と呼ばれるようになる)によって敗北を余儀なくされる。

 開城の条件として、長治は自分と一族の命を引き換えに城兵の助命、領民の安堵を願い立てた。秀吉はこの条件を受け入れる。別所氏は長い歴史を誇る名門一族だったが、長治の代で終わった。

 この時、長治は弱冠23歳。

 その後、三木城城主は羽柴秀吉、松原氏、中川氏と次々と入れ替わる。

 江戸時代になって、一国一令により廃城。

 三木城の資材は明石城に転用される。

感想

 三木城は、神戸電鉄三木上の丸駅の直ぐ側にある(三宮駅から1時間程度)。

 駅を出た直後に三木城への道しるべが見付かったので、行くのは困難でなかった。丘城という以上、石段、もしくは坂道を登る必要があるが、高さにして30メートル程度なので、問題ではない筈である。

 城址は一部が公園となっているが、他は神社、保育園、図書館、美術館などが建ち並び、「城」として整備されているとは言い難い。

 ただ、城址であることを示す表示や説明板があるので、歴史をしのぶことは充分に可能である。

 この城を初訪問した日は、他に明石城船上城にも行った。

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船 上 城

 

田んぼの向こうにある丘らしいのが城址らしいが、近付けなかった

 

別名

 

所在地

兵庫県明石市船上宇古城

種類

平城、水城

築城者

高山右近

築城年

1586年

遺構

本丸跡、土塁

初訪問

2004年

備考

 船上城は、キリシタン大名高山右近が1586年に築いたとされる。

 明石川河口の湿地帯に築かれた水城だった。

感想

 名城事典で見付け、ネットの地図で調べたら、城址の位置がきちんと記載されていた。明石城から1キロほどと、そう遠くないので行ってみることに。この数時間前に三木城を訪ねていたが、そちらはそれなりに満足できるものだったのでこちらも同程度なのでは、と期待していたが、裏切られた。

 一帯は住宅地となっていて、城址は保存されてはいるようだったが、なぜか近付けるようになっておらず、小川に隔てられた側の公園から望む他なかった。

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大 和 郡 山 城

 

復元隅櫓

 

別名

 

所在地

奈良県大和郡山市城内町

種類

平城

築城者

筒井順慶

築城年

1577

遺構

石垣、濠

初訪問

1998

備考

 大和郡山城というと豊臣秀吉の弟秀長の居城として名高いが、現在残っている郡山城の石垣などは秀長の死後入城した水野氏や、本多氏や、松平氏によって築かれたものらしい。

 また、郡山城を最初に築いたのも秀長ではなく、戦国時代中頃から筒井氏の支城が置かれていた。筒井氏の本城となったのは1577年からで、当主の筒井順慶はこの時点で城を大改修した。

 郡山城は順慶の跡を継いだ定次の居城となったが、秀吉の命で伊賀上野に転封され、代わりに紀伊・大和・和泉100万石の太守に任ぜられた豊臣秀長が入城した。

感想

 郡山駅は二つある。JRのと、近鉄のだ。近鉄郡山駅の方が郡山城に近い(奈良から郡山に移動する際、列車が郡山城の側を通過し、「ここで下ろしてくれ!」と思ったほど)。

 城内には濠や石垣が残っていて、櫓らしき建築が再現されているので、城っぽく見えなくもないが、城として整備されている、という実感は湧かない。

 本丸へは無料で入れる。

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和 歌 山 城

 

復元天守

 

別名

虎伏城、竹垣城

所在地

和歌山県和歌山市一番丁

種類

平山城

築城者

豊臣秀長

築城年

1585

遺構

石垣、水濠、復元天守群

初訪問

1998

備考

 和歌山城は弟秀長の為に豊臣秀吉が建てた城である。秀吉は和歌山に1ヶ月ほど滞在して縄張りし、1585年に本丸と二の丸の工事を終えた。

 秀長は当時大和郡山城に在城していたので、和歌山には重臣桑山重晴を城代とした。

 1600年の関ヶ原の合戦後、浅野幸長が37万石で和歌山に入った。この時、天守、二の丸、三の丸などが築かれた。

 1619年、徳川頼宜が55万5000石で入り、城を更に拡大したが、あまりにも大規模な工事だった為幕府の疑惑を招き、城代家老が江戸に出向いて疑惑を解く、という事件が起こった。天下の御三家も幕府を恐れていたのだ。

 和歌山はその後数回の火災に遭い、天守や御殿などを失った。御三家の為、特別に天守再建が許可されたが、藩主が幕府に遠慮した為最初に計画された5層天守ではなく、元と同じ3層天守が再建された。

 この天守も第二次世界大戦で焼失してしまい、現在そびえる天守は1958年に外観復元したものである。

感想

 和歌山城に最も近い駅はJR和歌山駅ではなく南海和歌山市駅。それでも徒歩で15分ほど離れている。和歌山は幕末で活躍した勝海舟が一時住んでいたらしい。元住居後を示す石碑を途中見た。

 本丸は二つに分かれていて、一方(天守曲輪)には天守や櫓などが再建されているが、もう一方(本丸御殿曲輪)はなぜか給水場のタンクが置かれ、入れないようになっていた。

 天守曲輪は有料。350円。

 和歌山市には、JR和歌山駅を挟んで、もう一つ城がある。現在は来迎寺となっている太田城である。そちらは城に関する説明板があるだけで、城として整備されてはいない。

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