津村巧の

城巡り

TAKUMI TSUMURA'S

CASTLES

 

津村巧の

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中国地方の城

 

広島に住んでいるので、中国地方の城には散々行っています。

 

鳥取県

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広島県

山口県

 


 

 

鳥取県の城

鳥取城

米子城

 

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鳥取県鳥取城米子城など

 

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鳥 取 城

 

鳥取城の石段と石垣

 

別名

久松山城

所在地

鳥取県鳥取市東町

築城者

山城

築城者

山名誠通

築城年

1545年

遺構

本丸、二の丸、石塁、濠、天守台、門

初訪問

1996

備考

 鳥取城祉は標高264メートルの久松山にある。

 1545年、山名氏の居城、天神山城の出城として築かれ、武田氏が城を預かった。1563年、武田高信は山名氏に反旗を翻し、破った。

 が、高信は毛利氏と手を結んだ為、毛利対尼子、毛利対織田の対立に引きずり込まれ、最前線で戦うことを余儀なくされた。

 1569年、高信は山名豊国に鳥取城を攻められ、城を奪われてしまった。

 ようやく山名家の手に戻った鳥取城だが、それも長くなく、1580年、羽柴秀吉による兵糧攻めにあう。この戦で豊国は城を捨て、秀吉側につく。

 関ヶ原の後、池田長吉が入城し、城を大改修する。

 かっては山頂に山上の丸、山下に天球丸、二の丸、三の丸があったが、山頂の天守閣は1692年に落雷で焼失。山下に御三層櫓を再建するだけにした。

 明治まで幾度も焼失と再建を繰り返したが、1879年に陸軍省によって残った建造物が解体されてしまった。

 現在は三の丸には高校や、仁風閣(ジンプウカク)という、皇太子(後の大正天皇)が宿泊した洋館が建ち、城らしいものが見たければ更に石段を上がらなければならない。

 そこでも石垣を残すだけである。

感想

 広島から鳥取まで距離的には遠くないが、いざ電車で行くとなると大変。本数は少ないは、途中で10分以上停止するは、て全く進まず、イライラした。

 鳥取城は、鳥取駅から1500メートルほど離れている。県庁の側なのでバスが通っている筈だが、時間割が分からず、利用できなかった。

 訪問した時は早朝だった為まだ暗く、撮った写真の大半は真っ黒だった。

「早起きは三文の徳」というのが嘘であるのを実感させた城。

 入場は無料。

 

追記:

 2005年1月に鳥取城を再び訪れることに。

 朝に行ったのだが、この日は雨が降るのか降らないのかよく分からない天気。散々悩んだ後行ってみたら、天気はどうにか持ってくれた。

 これなら山頂の山上の丸に行ってみるかと思い、登ってみた。

 前日米子城のある湊山を登っていたが、こちらの方が明らかに高い。登山道に「〇合目」を示す標識が立てられていたほど。

 途中、ヒョウが降ってきたので、「ちょっとまずいかも……」と悪い予感がした。が、半分以上登っていたので下りる訳にもいかず、山頂まで登ったら、雨がしっかりと降っていた。

 山頂の屋根付き休憩所で雨がやむのを待っていたが、その気配がなかったので、カメラ(ニコンD100)で写真を適当に撮りながら下山。

 最初に来た時は暗くて写真が殆ど撮れず、今回は雨。

 鳥取城には呪われている感じ。

 1996年に行った時はバスが利用し難くて結局使用できなかったが(城から駅まで徒歩で行き来した)、この時は行きも帰りも利用できた。自分がバスの利用に慣れてきたのか、バス会社が体制を改めて使用し易くしたのかは不明。

 鳥取城は石垣の整備が進められていて、あちこちが工事中だった。

 鳥取市の飲食店には、らーめんランドや、パフェが食べられるチャップリンがある。

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米 子 城

 

 

別名

久米城、

所在地

鳥取県米子市久米町

築城者

平山城

築城者

吉川広家

築城年

遺構

本丸、石塁

初訪問

2005年

備考

 米子城は、吉川広家によって湊山に築かれた城である。

 広家は関が原の戦で西軍についたことから、岩国に封じられ、代わりに中村一忠が入ったが、一忠は20歳で急死し、子がなかった為断絶。

 その後池田氏、荒尾氏が入城し、明治にいたる。

 維新後、個人に売却され、解体された。

感想

 米子城を初めて訪ねたのは2005年だが、米子に立ち寄ったのは2度目。1996年にも立ち寄っている。1996年の時も城に行こうとしたが、正確な場所が分からず、結局行けなかった。

 2005年の時は地図をきちんと入手するなどして準備していたので、比較的簡単に行けた。

 米子城は、100メートルほどの高さの湊山にある。

 麓から見た時は「これは物凄い山登りになるかも」と恐れていたが、実際登ってみると案外すんなりと頂上まで登れた(翌日登った鳥取城の方が高かった)。

 石垣以外は特に何も残っていないのは知っていたので、あまり期待していなかった。が、残っている石垣の状態は良く、その石垣も器用に構築され、見所が多い城だった。

 維新の時点で残っていた建築物が解体されなかったら……、と悔やむ。

 米子市にはラーメン屋無双があるが、信じられないほど待たされるので、少なくとも1時間半の余裕がないなら行くべきでない。

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島根県の城

松江城

津和野城

 

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島根県松江城など

 

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松 江 城

 

松江城天守

 

別名

千鳥城

所在地

690 島根県松江市殿町1-5

種類

平山城

築城者

堀尾吉晴

築城年

1611年

遺構

本丸、二の丸、石塁、濠、現存天守五層六階(重要文化財)、復元櫓

初訪問

1995

備考

 松江城は、23万石の大名が、1611年から五年の歳月をかけて築いた。3代目に絶え、京極忠高24万石が入城。しかし、たった4年で死んだ。子がない為断絶となった。その後、家康の孫松平直政18万石が入城した。直政は、結城秀康の3男で、14歳の時、大坂冬の陣で真田丸を攻撃し、初陣を建てた人物である。松平氏の治政が10代続いて明治を迎えた。

 城の殆どは史跡に指定され、保存されている。しかし、三の丸は濠の一部が埋め立てられ、県庁が建てられている。城内の建築物は全て壊されたが、天守だけは残された。

 天守の鯱は木製で、2.08メートルもある。木製としては、現存天守の中で最大である。

感想

 広島と松江は一応線路で結ばれているが、特急列車はないので、事実上バスでしか行けない。

 松江城は松江駅からかなり離れているので、電車で来たならバスを利用した方がいい。

 二の丸までは無料だが、本丸に入るには入場料を支払わなければならない。自分が行った時は400円だった。

 城の東部には古い町並みが残っているので、ついでに観に行くのもいい。

 天守は5階だが、何層なのかは書物によって分かれる。5層天守と記すのもあれば、3層天守、もしくは4層天守と記すのもある。

 天守は高さ30メートル。現存天守の中では姫路城松本城に続いて3番目。床面積では姫路城に続いて2番目である。

 

追記:

 2005年1月にまた訪れた。以前行った時は高速バスが城の側にある県庁前の停留所で停車したので、そこで下りたが、この時は高速バスは松江駅を発ってからはそのまま終点の松江しんじ温泉に向かった。

 松江しんじ温泉から松江城まで弱冠距離があるが、松江駅よりも近い。

 2001年に二の丸の南櫓、中櫓、太鼓櫓、そしてそれらを結ぶ塀が復元された。その為か、入場料は550円になっていた。

 藩主の松平氏が茶人だったこともあって、松江では和菓子が現在も数多く作られ、販売されている。

 松江市の飲食店には、出雲そばを出すちどりがある。

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津 和 野 城

 

石垣

 

別名

三本松城、蕗城

所在地

島根県鹿足郡津和野町

種類

山城

築城者

吉見頼行

築城年

1295

遺構

石垣

初訪問

2003年

備考

 津和野城を最初に築いたのは吉見頼行。1295年のことである。築城期間は30年間にも及び、完成した頃には頼行の子の代になっていた。

 津和野城は戦国時代に入って幾度も合戦に巻き込まれているが、功城戦に持ちこたえたことから中国地方屈指の名城と讃えられるようになった。

 その後坂崎氏や亀井氏が入り、幕末に至る。建物は明治初期に解体され、残るのは石垣となった。

 標高367メートルにあることもあって、建物は解体できたものの石垣には手を付けられず、その結果ほぼ全ての曲輪の石垣が保存されているという全国でも類を見ない城跡となった。

感想

 旅行ガイドブックでは「萩・津和野」とセットになっている場合が多い。萩は山口県だから、津和野も山口県……と思われることが多いらしい。実は島根県にある。

 津和野は小京都とされ、町全体が観光として整備されている。レンタサイクルもあり、町内を回り易い。

 津和野城がある山は、徒歩でも登れるが、ロープウェイを使うのが無難だろう。ロープウェイ駅にたどり着く前にかなり上らなければならないが。

 津和野城そのものは無料で入れる。石垣が見事で、どうやって石材をこんな所に運んだのだ、と感心する。

 本丸からは町が一望できる。

 津和野の近くに益田市があり、そこには稲積城と七尾城がある。

 津和野名物にはおみき饅頭がある。

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岡 山 城

 

復元天守

 

別名

烏城、金烏城、石山城

所在地

700 岡山県岡山市丸の内2-3-1

種類

平山城

築城者

宇喜多秀家

築城年

1597年

遺構

本丸、石塁、現存櫓二、濠、鉄筋コンクリート外観復元天守

初訪問

1995

備考

 かっての岡山城は石山と呼ばれる場所にあった。城主の宇喜多秀家は豊臣秀吉の養子になったことで、57万石の大名になり、石山の城は小さ過ぎると感じた為、現在の場所に新しく城を築くことにした。1590年から工事は始まり、1597年に完成した。櫓数35、城門21の巨大な城だった。

 関ヶ原の戦いの後、秀家は島流しとなり、代わりに小早川秀秋50万石が入城したが、二年で死亡。子がなく、断絶した。その後、姫路系・鳥取系の池田氏31万石が入城し、明治を迎えた。

 維新まで多くの建造物が残っていたが、明治になると、天守、櫓二、門一以外、全て取り壊されてしまった。天守は二度も国宝に指定されたが、石山門とともに大戦で焼失した。

感想

 岡山城へは、駅から真っ直ぐ伸びる大通りをそのまま進めば到着する。ただ、1キロ以上あるので、大通りを通る路面電車を使うのが無難だろう。

 天守は、城内より対岸(後楽園)から望んだ方が良い。

 現在公園となっている岡山城の全域が本丸である。上段、中段、下段に分かれている。通常なら本丸、二の丸、三の丸となっていてもおかしくないから、いざ他人に説明するとなるとややこしくなる。

 天守のある本丸上段までは無料で行ける。ただ、上段の門は年末年始は閉鎖される。

 天守の入場料は、最後に入った時は300円だった。特別展示があると800円にもなる。鉄筋コンクリートとあって、中は図書館かと見紛うほど素っ気ない。

 遺構は岡山城公園だけでなく、近くの小学校にもある。

 岡山市内には他に秀吉による水攻めで有名な備中高松城や、撫川城や、庭瀬城がある。

 岡山市にはカレーショップのQUIET VILLAGEナッシュ・カリー・アメリカンHINOTAMAマハラジャニーラーペールがあり、パフェが食べられる夢二FUJIYAがある。

 岡山の代表的な名物はきびだんご。様々なメーカーが提供している。

 英語版はこちら

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備 中 松 山 城

 

天守。最小の現存天守らしい

 

別名

高梁城

所在地

716 岡山県備中高梁市内山下1

種類

山城

築城者

水谷左京亮勝宗

築城年

1683年

遺構

本丸、二の丸、三の丸、石塁、現存天守二層二階(重文)、現存櫓、現存城壁、復元櫓

初訪問

1996

備考

 備中松山城の歴史は、1240年、秋庭三郎重信が臥牛山に砦を築いたことから始まる。城主は時代を経て変わり、戦国時代末期には三村氏の居城となる。しかし、三村氏は毛利・織田の対立の間で綱渡りを強いられ、滅んでしまい、城は毛利の東方進出の拠点となった。

 関ヶ原の後、毛利氏は松山城を手放す羽目になる。以後、池田氏、水谷氏、安藤氏、石川氏、板倉氏……と城主が変わり、明治維新を迎える。

 現存天守は水谷勝宗が修築したものだと伝えられている。

 なお、臥牛山は四つの峰からなり、今の城があるのは小松山である。

 だから松山城という。

 大松山というのもあり、そこにも砦が築かれていた。現在も土塁などが残っているらしい。

感想

 最寄の駅はJR備中高梁駅。

 松山城は駅からかなり離れたところにあり、しかもバスも通っていないから、かなり歩く羽目になる。麓に到着すると山中の駐車場まで走るバスがある。往復で200円。なぜ駅まで行かないのかと疑問に思う。

 本丸までは無料で入れる。天守に入るには300円支払わなければならない。

 天守一階の床に、40センチ四方の四角い穴があったので、何だこれはと思って近付くと囲炉裏だった。囲炉裏がある天守はここだけだろう。

 

追記:2004年2月

 

 この時は、麓と山中を結ぶバスは走っていなかった。標識だけは至る所に立ててあり、料金は往復で300円となっていた。

 復元工事費用を回収する為か、入場料は天守ではなく本丸入り口で払うようになっていた。つまり、天守に上がる、上がらないに関係なく、本丸に入るなら入場料を支払わなければならない。

 そのこともあって、以前は通れた本丸内の門が閉じられていた。

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備 中 高 松 城

 

公園となった城跡

 

別名

沼城

所在地

岡山県岡山市高松

種類

平城

築城者

石川久弐

築城年

16世紀前半

遺構

本丸、濠

初訪問

1995

備考

 天下統一を目前にした織田信長は、中国地方の毛利氏を征伐する為、秀吉に備中を攻め込ませた。数万の大軍で七城を攻略した後、高松城を囲んだ。1582年4月27日だった。この時の高松城主は清水宗治である。

 正攻法で城を落とそうとするが、天然の濠に阻まれ、失敗した。そこで秀吉は水攻めにすることにした。高さ7メートルの堤が2週間後完成する。

 川水は城内に流入し、城は湖中に孤立してしまった。

 講和の話が進められた。城主宗治が切腹すれば城兵を救うと。宗治はそれに同意した。

 この頃、信長は明智光秀に暗殺される。この知らせは翌日秀吉の耳に入った。主君が殺された為、中国征伐は自動的に延期。高松城を落とす理由はなくなったのである。

 しかし、秀吉はこの報を宗治に伝えなかった。何も知らない宗治は切腹した。高松城は落城したのである。

 その後、高松城は宇喜多氏の城になり、重臣英房正成が城主となった。関ヶ原後、家康の旗本花房職之が入城。後に廃城となった。

感想

 最寄の駅は備中高松駅。駅に城の位置を示す地図があるので、大体分かる。500メートルほど離れている。

 高松城跡は現在公園となっている。水攻めに遭ったのも当然と思わせるほどの平地である。城跡ですよ、という説明板がなかったら、そうとは気付かないだろう。

 

追記(2005/03):

 現在、一帯は平地となっている。山が一切ない地に城なんか築けたのか、とこれまでは思っていたが、2005/3の湯築城訪問で見方が変わった。飛び道具の威力も射程距離も限られていた中世では、「堅固な城を築くには山にしなければならない」という訳ではなく、何重もの幅の広い堀で固めるだけで充分堅固な城にすることができたようである。

 ただ、この城の場合、鉄壁の天然濠が逆に落城の原因になってしまったが。

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津 山 城

 

復元工事が進められていた備中櫓

 

別名

鶴山城

所在地

岡山県津山市山下

種類

平山城

築城者

山名忠政

築城年

1441年

遺構

曲輪、石垣、堀

初訪問

2005

備考

 津山城は、山名忠政が鶴山(つやま)に城を建てたのが始まり。山名氏が応仁の乱で衰えると共に廃城となった。

 関が原の戦の後美作国に転封された森忠政が、新たな城として鶴山に目を付け、津山と改名すると、現在残る城を完成させた。

 森氏は4代95年続いた後断絶。代わりに松平氏が入城し、明治に至る。

 明治維新の段階で4層天守を始めにかなりの建築が残っていたが、全て取り壊され、石垣を残すのみとなった。

 現在は備中櫓が復元されている。

感想

 津山は、1996年に鳥取を訪れ岡山に移動する際に通過した。立ち寄るべきだったが、天候不順で諦めた。

 津山と岡山はJR津山線で結ばれているが、本数が少ないので、長い時間をかけて見ることはできなかった。

 石垣は見事で、高いもの、低いもの、長いもの、短いもの……、と様々な石垣が組み合わさり、見るだけでも面白い。

 城は本丸、二の丸、三の丸……、と内郭がほぼ完全に残っている。三の丸から入るが、そこに入るのにも入場料210円が必要。

 天守を含む建築物は明治時代に全て取り壊されてしまったが、自分が行った時点では本丸備中櫓を復元中だった。

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広 島 城

 

復元天守

 

別名

鯉城、在間城、当麻城、石黒城、御篠城

所在地

730 広島県広島市中区基町21

種類

平城

築城者

毛利輝元

築城年

1591年

遺構

本丸、二の丸、濠、鉄筋コンクリート5層5階外観復元天守、復元二の丸櫓、復元二の丸門

初訪問

1993

備考

 広島城は名門毛利家112万石の居城として1592年に建てられたが、関ヶ原の戦いの後、福島政則の城となった。後に政則は幕府に騙され、49万8000石から4万5000石に減らされ、信濃高井に移された。

 関ヶ原の戦いの直前、東軍となる大名たちの間で会議が行われたが、その時に家康の為に演技したのが政則だ(石田三成と特に仲が悪かったらしい)。お陰で多くの大名は家康側に付いた。そんな政則がこんな扱いを受けるなんて……。家康はタヌキと言われるが、全くその通りだと思う(実際に騙したのは息子の秀忠だった。家康と家光の名将軍に挟まれ、いくらか影の薄い人物だが、家光に劣らぬ冷酷さで多くの大名を取り潰した)。

 政則の後、浅野長晟(三原城を支城とする)が42万石で入城し、浅野氏はそのまま明治維新を迎えた。

 現在、広島城には本丸と二の丸が残され、水壕も残されている。本丸には護国神社が建てられ、城跡には場違いな車用の道路がある。実際、その辺りを歩いていると城跡にいる実感が湧かない。三の丸には県庁が建てられ、城の面影は全く残っていない。

 本丸は比較的高い北半分と、比較的低い南半分から成り立っていて、北半分は犬走りのような低い石垣に囲まれている。本丸はかなりの面積があるが、二の丸は非常に狭いのが特徴。

感想

 広島に越してまず行ったのが原爆ドームでも、平和資料館でもなく、広島城である。

 広島城本丸は上段・下段に分かれている。他の城だったら本丸・二の丸として区分されるほどの規模である。

 一方、他の城だったら二の丸は出丸と称されるほどの規模。

 天守には本来小天守が二つあった。これらを復元しよう、という話もあったそうだが、財政難に陥っている現在、無理な話。

 本丸、二の丸は入場は無料。天守に上るには300円の入場料を支払わなければならない。

 広島市内で行ったことがある店はとにかく多いので、ここで確認を。

 広島の銘菓には、もみじ饅頭がある

 広島城自体が様々なイベントや行事の会場になることも。広島城秋祭りや、年末年始など。

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福 山 城

 

復興天守

 

別名

久松城、葦陽城 (イヨウ)

所在地

720 広島県福山市丸之内1-8

種類

平山城

築城者

水野勝成

築城年

1622

遺構

本丸、石垣、鉄筋コンクリート5層6階地下1階復興天守(1966年再建)、櫓、御殿の一部

初訪問

1994

備考

 福山城は水野勝成によって1622年に築かれた。

 久松城とも呼ばれるこの城は水野氏5代、松平氏1代、そして阿部氏10代が城主となり、明治を迎えた。どの城主も10万石であった(阿部氏7代正広から11万石)。

感想

 城が駅から遠過ぎると行きたくなくなるので、城が駅の側にあるのは悪いことではない。

 ただ、福山城のように目と鼻の先にあるのもどうかと思う。

 残されているのは本丸跡だけだが、現存建築が比較的多いのがせめての救い。

 本丸に入るのは無料。鉄筋コンクリートの天守に入るには入場料が必要。自分が行った時は200円だった。

 城の周辺は高層ビルが続々と建っていて、以前は駅到着前から天守が望めたが、今は駅に到着してやっと天守が望める程度に留まってしまった。

 日本の都市計画は計画になっていない、としか言いようがない。

 福山市にはカレーショップのさの家、パフェが食べられるエスポワールカレーも食べられる)とESTACIONモーニングサービスもある)。

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三 原 城

 

本丸石垣。この位置から更に左に目を向けると、本丸が駅と合体しているのが分かる

 

別名

浮城

所在地

広島県三原市館町・城町・本町

種類

平城・海城

築城者

小早川隆景

築城年

1580年頃

遺構

石塁、濠、本丸の一部、天守台

初訪問

1994

備考

 三原城は小早川隆景によって築かれた。彼は毛利元就の三男である。兄には毛利隆元、吉川元春がいた。この三人が『三本の矢』を折ってみろ、と言われたと伝えられている(後世に作られた話だと言われているが)。

 水軍を重視した毛利家は、三原城を重要な水軍基地とした。城が海に浮く海城であったり、2000平方メートルにも及ぶ大きな舟入りあったのもこの為だ。

 しかし、小早川隆景の死後、三原城は福島正則、浅野長晟(ナガアキラ)の持城となり、その内分家の浅野忠吉が3万5000石で入城し、明治を迎えた。この頃には水軍基地としての機能は大幅に低下していた。

感想

 福山駅は福山城本丸の目と鼻の先にあったが、三原駅は三原城本丸そのものに建てられている。駅から出て振り向くと石垣を繰り抜いた出口を通ったことに気付く、という具合。

 三原城本丸へ行くには、駅舎に入らなければならない。

 城跡はもう一つある。駅の南に位置する城町にある舟入櫓跡である。築城当時は海に面していた櫓があった場所だが、現在は周辺が完全に埋め立てられていて、ここは昔は海だったと言っても誰も信じないだろう。なぜこの程度を残したのか、と思いたくなるほど何も残っていない。

 三原城本丸も、舟入櫓跡も、無料で入れる。

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亀 居 城

 

本丸から見た天守台

 

別名

小方城?

所在地

広島県大竹市

種類

山城

築城者

福嶋正則

築城年

1603年

遺構

本丸、二の丸、石塁、天守台

初訪問

1995年

備考

 亀居城は関ヶ原の戦いの後、この地に移った福島正則によって築かれた。広島を本城とし、小方、三次、東城、三原に支城を築いたのである。

 小方の城は1603年に築城を開始し、5年後に完成。しかし、1611年、完成からたった3年後に幕府の圧力によって取り壊されることになる。これではいくら石塁が見事でも歴史に残らないのも納得できる。

 支城でも規模は小さくなく、周囲は2キロほどあり、面積は992a、10万平方メートルほどあった。本丸、二の丸、三の丸……と11の曲輪から成り、掘も巡らされていた。

 この城が亀居城と呼ばれるのは、城地が亀に見えたからだ。現在も山の形がそう見えなくもない。地図から見ると城は細長いが、中を歩いていると実際より広く感じる。

感想

 亀居城は、玖波駅と大竹駅の間にある。いずれからも2キロ以上離れている。途中までバスで行けるようになっているが、本数が少なく、利用するのは無理。駐車場があるので、車を持っていれば車で行くのが正解だろう。

 公園としての整備は進んでいて、山の上にあるにしては立派な石垣を誇る。

 本丸へは無料で入れる。

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吉 田 郡 山 城

 

百万一心の碑。「一日一力一心」と読めなくもない。2005/03撮影。1997の時は見れなかった

 

別名

 

所在地

広島県高田郡吉田町

種類

山城

築城者

毛利元就

築城年

1533年

遺構

本丸、二の丸、三の丸、土塁、石塁、空堀、井戸

初訪問

1997

備考

 元就が毛利家を継ぐことになって猿掛城から郡山城へ移った時、郡山城は郡山の南東部分を占めるに過ぎなかった。これが現在「旧本城」と呼ばれている曲輪である。

 郡山城は元就が勢力を広げると同時に拡大され、最終的には郡山全域が城となった。

 郡山城が他の山城と違うことは、本丸を中心に曲輪が放射状に配置されていることである。他の山城では、曲輪が直線状に配置されているのが多かった。

 また、これまでの山城は戦時専用の砦に過ぎず、平時は梺の館で城主が生活するのが常例だった。郡山城では平時でも城主は山に住んでいた。つまり、郡山城は平時・戦時の場が合体した、後の平山城や平城のような城だったのである。

 最盛期には立地面積が7万平方メートル、曲輪の数が200以上にも及び、日本で最大の山城の一つとなった。部分的ながらも石塁が利用され、堅固な城塞だったと思われる。

 しかし、元就の孫の輝元は、上洛した際、秀吉の大坂城や聚楽第そしてその城下町を見て、郡山城が時代遅れなのを悟った。輝元は国に戻り、新城を築くことを決意した。こうして築城されたのが広島城である。

 郡山城は広島城完成後、廃城になった。それでも石垣などは残っていたらしいが、島原の乱の後、キリシタンに使用されるのを恐れた幕府は徹底的に郡山城を破壊した。大大名の居城であったのにも関わらず、遺構が少ないのもこの為である。

 秀吉は平山城を好んだ。豊臣大坂城も、名護屋城も、平山城である。家康は平城を好んだ。名古屋城を見れば明らかである。

 しかし、毛利氏は山城を好んだらしい。郡山城を見れば分かる。広島城は平城だが、これは例外のようで、輝元が長州に移された際、新たに築いた城は山頂に詰めの曲輪を持つ縄張りだった。これが萩城である。

感想

 NHK大河ドラマ「毛利元就」が放送されていた時に行ったので、全体的に整備されていた印象を受けた。「毛利元就」ブームが去った現在はどうなっているかは不明(追記参照)。

 本丸のある頂上まで、無料で行ける。ただ、ロープウェイのような大層なものはなく、徒歩でひたすら上らなければならない。

 側に青山城、光井山城、天神山城、そして毛利元就の生誕地でもある猿掛城がある。

 

追記:

 2005/03に再訪。高知から広島を訪れた中世の城の保存会一行と共に。ガイドさんが同行した為、前回来た時は行けなかった場所、行こうと思ったが行けなかった場所にも行けた。

 保存会には考古学の専門家もいて(当然だよね)、「堀切が少なく、高知の中世の城と比べると防備が薄い」とコメント。自分は「山城はどれも堅固だ」と思っていたが、そうでもないらしい。当たり前といえば当たり前だが。

 この直後に猿掛城にも行った。

 高田郡吉田町は周辺の町と合併した為、郡山城は現在安芸高田市にあることになる。安芸高田郡山城と称さねばならないのかね。

 ちなみに、大河ドラマが終わってからは、地域は全体的に閑古鳥が鳴いているという。

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宮 尾 城

 

城跡としては特に整備されていない

 

別名

要害山(ヨウガイザン)

所在地

広島県佐伯郡宮島町要害山

種類

海城(丘城)

築城者

毛利元就

築城年

 

遺構

 

初訪問

1996

備考

 宮尾城は、中国地方を征した戦国大名毛利元就が、陶晴賢を迎え撃つ為に築いた囮城である。元就は、陶晴賢側に、宮島の宮尾城が弱点であると思わせた。この偽情報にまんまと食らい付いた陶晴賢は、2万の大軍で宮島に上陸し、宮尾城を攻め落とそうとした。

 宮尾城の兵は500足らずだったということだが、城兵はあらゆる策で攻撃を退け、逆に陶軍に大被害を与えた。

 この間に、元就は宮島の北側の包ヶ浦に上陸し、悪天候を利用して陶軍の陣地を次々壊滅させ、陶晴賢を自決に追い込んだ。こうして巌島の戦いは終結した。

 諜報作戦や、天候を活用し、小軍で大軍を破った。この為、巌島の戦いは、義経の鵯鳥越の戦いや、信長の桶狭間の戦いと共に、日本三奇襲戦の一つに数えられている。

 宮尾城は、当時は三方が海に囲まれていたということだが、現在、周囲は埋め立てられ、近代的な建物が乱立している。

感想

 宮島にある城である。

 フェリー乗り場を出ると宮尾城への入り口が望める。

 城内には展望台があるだけで、城があったと示すものは特にない。臨時的に築かれたもので、巌島の戦の後に直ちに破却されただろうから、当然か。

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猿 掛 城

 

猿掛城本丸。左側の高台はいわゆる「天守台」

 

別名

 

所在地

広島県安芸高田市吉田町多治比

種類

山城

築城者

毛利弘元

築城年

 

遺構

曲輪、土塁

初訪問

2005年

備考

 毛利元就が青少年期を過ごした城として有名。

 毛利広元が4歳の息子元就を伴って郡山城から猿掛城へ移り、隠居したのである。

 毛利家では、代々継ぎ(長男)は「〇元」という名が与えられた(広元もその例)。したがって、元就は本来毛利宗家の跡継ぎではなかったのである。

 元就はこの城の城主として一生を終えても不思議ではなかったが、毛利家が当時仕えていた有力大名の後押しもあって毛利宗家を1523年に相続し、毛利家の本城吉田郡山城へと移る。

感想

 1997年に吉田郡山城を訪れた際、行こうと思っていたが、交通の便が悪い(バスで行かなければならない)ので断念した。

 2005/03、高知の中世の城保存会から「吉田郡山城湯築城へ行くので、一緒に行きませんか?」お誘いがあったので、参加することに。猿掛城は当初の予定には入ってなかったが、希望が多かったので、入ったらしい。

 猿掛城へ向かったのは吉田郡山城を訪れた後。既に5時近くになっていた。

 山城なので、当然ながら山の上にある。バスでは入り口までしか行けず、後は徒歩で上るしかない。吉田郡山城ほど高い山でなかったのはせめての救いか。

 保存会には考古学の専門家がいた。70歳という年齢にも拘わらず足がやけに速く、こちらは付いていくのに苦労した。

 吉田郡山城は山頂の本丸を中心に曲輪が放射線状に配置されている、という縄張りだったが、こちらはそれほどの規模ではなかった。が、本丸に後の時代には天守台に相当する高台がある点は、吉田郡山城に似ていた。

 本丸南部は高さ10メートルほどの崖。自然のものかと自分は思ったが、考古学の専門家によると、これは堀切で、本丸の南の防御力を高めるものだとコメント。素人が気付かないものも、専門家が見ると一目瞭然らしい。

 本丸南部の縁は少し高くなっていたが、それは土塁跡だ、とのこと。

 今回の猿掛城訪問では、ガイドさんと考古学の専門家のお陰で10回分の訪問に相当する情報を得られた。

 猿掛城は本丸、出丸、物見丸から成り立っているが、本丸より出丸の方が見応えがあるとか。

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山口県の城

岩国城

萩城

山口城

 

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山口県岩国城萩城など

 

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岩 国 城

 

復興天守

 

別名

横山城

所在地

741 山口県岩国市横山2丁目

種類

山城

築城者

吉川広家

築城年

1603年

遺構

鉄筋コンクリート4層5階復興天守(1962年再建)、復興天守台

初訪問

1994

備考

 岩国城は吉川広家によって築かれた。上の層が下より張り出している南蛮造りという珍しい天守を誇っていた。

 が、一国一城令により、1615年に廃城。完成から僅か7年しか経っていなかった。

 その後麓は吉川家の屋敷が築かれた。

 現在の復興天守は、本来の天守があった場所からずらして建てられている。山麓からの眺めを考えてのことらしい。

 岩国の最大の見所は、日本三奇橋の一つである錦帯橋。元は城と城下町を結ぶ橋だった。

感想

 岩国城に最も近い駅は岩徳線の西岩国駅か川西駅だろう。しかし、岩徳線は本数が少ないので、岩国駅からバスで向かうのが一番便利と思われる。

 岩国城と岩国駅は約3キロ離れている。最初訪れた時は徒歩で往復したが、今振り返るとよく歩けたなと思う。

 錦帯橋は有料で、往復210円。

 岩国城へはロープウェイで行く。往復540円。800円出すと天守入場のセットになる。ロープウェイは20分置きに出る、となっているが、客が多いと10分間隔で出すので、混んでいなければ待ち時間は短い。

 吉川家の屋敷跡に造られた吉川公園は、これといったものがないにも拘らず、観光客で賑わっている。

 岩国市にはカレーが食べられるたんぽぽ、パフェが食べられる向日葵、ラーメン屋のラーメン屋(そのまんまだ)がある。岩国市では毎年5月5日に日米親善デーが開催され、そこのピザハットで食事することもできる。

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 城

 

萩城本丸石垣。背景にあるのは詰の丸がある指月山

 

別名

指月城

所在地

山口県萩市堀内

種類

平城・山城

築城者

毛利輝元

築城年

1605

遺構

石垣

初訪問

2003

備考

 中国地方を支配していた毛利氏は、関ヶ原合戦で西軍側に付いた為、領地を減らされることになった。毛利氏は本城広島城を出て、新たな居城を築かねばならなくなったのである。

 毛利氏はいくつかの候補地を幕府に提出した結果、第三候補の萩での築城許可が下りた(第一候補は防府の桑山、第二候補は250年後の幕末に毛利氏が幕府に許可を得ることなく築城した山口の高嶺)。

 毛利氏は、指月山の山麓に平時用の城、指月山の山頂に戦時用の要害を設けるという戦を視野に入れた縄張りを行った。

 指月山は日本海に面していることから、萩城はいざ戦争になれば難攻不落の水城となる筈だった。しかし、幕末になると海に面する城は外国船からの砲撃を直接受ける、という危険性が指摘され、毛利氏は幕府の許可を得ずに山口の高嶺に山口城を築き、藩庁を移した。

 その結果萩城の政治的意義は失われ、明治維新後は真っ先に廃城となった。

 戦国時代は「難攻不落」の要因となった天然の壕(海)が、260年後には最大の弱点になってしまい、その結果捨てられる……。時代の流れを感じさせる城である。

感想

 最寄の駅は東萩駅。といっても、萩城から3キロと、かなり離れている。駅前にはレンタサイクルがあるので、それを利用するのが無難。

 萩は萩焼の本拠地で、あちこちで萩焼を売っている。古い町並みが残った旧市街地に入ると、萩焼の販売店ばかりになる。

 旧市街地は古い町並みが良く保存してあり、明治維新で活躍した人物の住宅が多く見られるが、萩城そのものは忘れられたような存在で、辛うじて公園ぽく整備されている、といった感じ。入場は無料である。

 城内には旧福原家書院以外、何も残っていない。石垣だけである。

 裏にある指月山には詰の丸があり、そこにも石垣が残っている。ロープウェイなどはないので、徒歩で上るしかない。泥道なので、足元に注意する必要がある。

 萩市内はこれといった歓楽街はない(見付けられなかっただけか)。

 萩旅行の際には萩リバーサイドホテル小川を利用した。

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山 口 城

 

藩庁門。背景にあるのが高嶺城があった高嶺山

 

別名

山口屋形

所在地

山口県山口市滝町

種類

平城

築城者

毛利敬親

築城年

1864

遺構

藩庁門

初訪問

2003

備考

 山口城は比較的新しい城、というか、幕末に毛利氏が幕府の許可を得ることなく築城した城である。これまでの居城だった萩城は海に面していたことから外国船からの砲撃を受け易い、ということで急遽築城が決まったのである。

 高嶺の麓に築いたのは、萩城が平城と山城の二城から成り立っているように、山口城もいざという時は高嶺で立てこもることができる……という思惑があったかららしい。

 維新後、山口城は県庁として使われることになったが、1911年の県庁改築の際に元の建物は全て取り壊された。藩庁門だけが現在の場所に移築されて残された。

感想

 山口城は、何も残っていないと考えてもいい。現在の県庁周辺を歩き回っても、縄張りがどんなものであったか見当も付かない。

 県庁は山口駅から1キロほど離れている。

 山口市そのものは、本当に県庁所在地なのか? と疑いたくなるほど閑静である。

 県庁の側に山がそびえているが、それが高嶺城があった高嶺山である。

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